**まんじぇスタッフがつづるコラムです。**

デモクラティックスクールへの熱い思いを語ります。

「スタッフの仕事とは?」                 2017.3.22

 先日、デモクラティックスクールのスタッフの仕事って何なの?と聞かれることがあったので、その後、改めてじっくり考えていました。デモクラティックスクールのネットワークで共有している説明のための資料に書いてあるのは、こんなことです。

 

・スクールコミュニティのよき仲間としている

 一緒に遊んだり、おしゃべりしたり、ミーティングで真剣に話し合ったり。

・子どもたちからリクエストされたことを教えたり手伝ったりする

・スクールを支えるための仕事

 メールに返信したり、校舎の修繕をしたり、会計、広報活動、ホームページなどの管理、

  見学者の案内などなど。

 

 これはもちろん正しいのですけど、本当はもっと大切な見えない仕事があるのだと思うのです。それを考えていたら、これを思い出しました。

 これは今から二十数年前に私がアメリカのグラスルーツスクールでのインターンから帰国した頃に某冊子に寄稿したエッセイの扉です。これは、グラスルーツ校で長年、中心的スタッフだったパット・シアリー氏について書いた文章なのですけど、ちょうど今年の初めに、そのパットが亡くなりました。私が人生で最も尊敬する人の一人だったので、私にとって喪失感はかなり大きかったのですが、そんな彼の思い出も交えて、ここに書いてみようと思います。

 

 少し前に国際的なサドベリースクールスタッフのメーリングリストでスタッフの役割についてのやりとりがありました。いろいろ深いやりとりがあったのですが、中でも印象的で、本当にそうだなあと思ったことがあります。それは、スタッフの仕事というのは行動だけでは表せないということです。

 デモクラティック(サドベリー)スクールでは、基本的に大人から何かすることを提案するようなことはしません。だから、例えばスタッフが自分がやりたいと思うことをしていても、そこに何の意図もなければ問題ないのですが、「これを自分がしてたら、やりたいっていってくる子がいるかもしれない。」というような思いがあったら、もうそれはNGなんですよね。「すること」のみならず、「しないこと」も同じで、何もしていなかったとしても、そこに「大人が動かなかったら子どもが動くんじゃないか?」というような期待が入っていたら、それもアウト!なんです。つまり、デモクラティックスクールのスタッフとして適切かどうかは、行動だけでは測れないのです。

 

 そんな行動にも現れないようなことは子どもにも伝わらないと思いますか?そんなことはないと思っています。少しずつ説明しましょう。まず、大人はどうしてすぐに子どもに口出ししたくなるのでしょう?そこに隠れているのは、おそらく、子どもは大人より未熟なので大人が導かなければいけないという意識ですね。ですが、デモクラティックスクールでは、(このことはこちらのページにも書きましたが)人は責任を伴った自由の中で自分で選んでその結果を体験して行くことで一番学べると考えますし、その中で一番自己肯定感が育つと信じているのです。

 スタッフが一切口出ししないのは、自分の時間をどう使うのか、子ども本人が考えることができると信じているからですし、その結果たとえ失敗することがあっても、それも成長の糧にしていくだろうと信じているからです。そこにあるのは「完全信頼」なんですね。 

 

 それは確実に子どもたちに伝わっていると、私ははっきりとグラスルーツ校で認識しました。というのは私自身が自分のこととして、それを感じたからです。それは「あのとき言われたあの言葉」とか、「あの日のあの出来事」とかではありませんでした。その場に存在する空気というか、小さなことの積み重ねというか…言葉で言うのは難しいのですが、1年滞在して、グラスルーツを去る時、私はその先のことが何も決まっていなかったにも関わらず、そのことに対する不安は全くなく、むしろ「これから私はなんでもできる」という感覚だったのです。気付けばそんな自分だった、という感じです。

 

 似たような経験を、先日パットが亡くなったときに、彼との思い出ということで、近所に住んでいた人が書いていました。彼女が大学へ行くと決め、そのために作文を書かないといけなかったときに、パットに「よかったら書き方を見てあげようか?」と声をかけられて家に行ったそうです。作文の書き方的なことについて彼が伝えたことは、彼女には「もうわかってる」ということがほとんどで、はじめ、「そんなことは知ってるし…」と、ちょっと退屈に感じたそうなのですが、彼と話すうちに、大学という新しい世界へ出て行くことに対する不安がなくなっていき、帰り道には「私、世界征服だってできちゃうかも!」くらいの気持ちになっていたと。「きっと彼が私に伝えてくれたのは、作文の書き方じゃなくて、私は私のままで大丈夫だって、そういうことだったのだと思う。私はグラスルーツ校の生徒じゃなかったけど、彼は間違いなく私の先生だった。」と締めくくっていました。

 

 彼には何か魔法的な力があったのか?そこではじめにご紹介した二十数年前のエッセイに戻ります。あのとき、パットがしているスタッフとしての仕事について考えたとき、表面上目に見えることとしては、スクールの事務仕事、電話応対、「Word(言葉)」のクラスを希望者に開いていること、ときどきバンジョーを弾きながら子どもたちと一緒に歌っていること、そして子どもたちに「もう、またぁ、パットは〜」と言われるようなジョークを言っいる、そんなことが彼が日頃していることだったのですが、最大の仕事は何か?と聞かれたら、あの表題にした「信頼すること」だと思ったのです。

 

 それは簡単に言葉にできることではなく、信じて見守ってくれているその雰囲気だったり、場合によっては視線1つだったりするかもしれませんが、やっぱり、相手を丸ごと信頼しているその心が伝わっているとしか思えないのです。そして知らず知らずのうちに、そのままの自分を肯定できるようになっているのです。そう、知らず知らずのうちなので、長い期間が経過してから振り返れば、あの雰囲気を作ってくれていたのは彼だと思うのですが、そのときには、そんなふうには感じなかったのですよね。

 

 おそらく自分自身の自己肯定感が低い大人は、無意識のうちに賞賛や、感謝されること求めてしまいます。そうすることで自分を肯定しようとしてしまうのです。「あなたのおかげ」と思われたい意識が知らないうちに働きます。でも、それは下手をしたら子どもの「自分でできた」という自信を減らすことになりかねない。その部分に、彼はとても敏感で慎重であったと思います。この辺りは、彼が亡くなってから改めて深く認識しました。

 

 彼が亡くなった後、彼の遺言が公表されたのですが、その中に寄付についての項目がありました。「こちらの団体に寄付をしてください。」として3つか4つ挙げてあったその下に「グラスルーツ校にはしないで欲しい。」と書いてあったのです。一瞬驚いたのですけど、その理由として「グラスルーツがグラスルーツであるからサポートして欲しい。自分が理由ではなく。」と書いてあって、私はそこに彼のグラスルーツ校に対しての、自分がいなくても関係ないんだ、あの学校のあり方に価値があるんだという確固たる自信と、自分なき後も変わりなくあの素晴らしい学校を継続していってくれるだろう生徒、スタッフ、保護者への限りない信頼を感じて、実に彼らしいと涙が溢れたのでした。そんなふうに、最後の最後まで学校の運営に関わる全ての人を最大限に信頼し、自分の影響を最低限のレベルにとどめようと努力していたのだと思いました。(それは現実にもですけど、人々の意識の中でも)

 

 家族や周囲が何度も勧めたにもかかわらず、彼が頑として本を書かなかったのも、おそらく同じ理由なんじゃないかと思います。それがバイブルのようなものになることを避けたかったんじゃないかと。実際、サドベリースクールの関係者から、ときどき「サドベリーのダニエルはあの本の中でこう言っていた」というような話を聞くことがあります。そういうものはありがたい指針となるときもありますけど、その人が素晴らしい人であればあるほど、周りが自分の頭で考えるのをやめてしまう危険性もはらんでいます。その点、パットの徹底ぶりは見事というしかありません。

 

 私たちがすべきことは、常に「それは子ども主体になってる?」そう自分自身に問いかけ続けるだけです。何故って、問いかけ、こだわった結果がどうなるのか、それは国や文化が違えば違って当然だし、そのときのメンバーが違えばきっと違う結果になるのではないかと思うからです。今現在、どうあるかが問題なのではなく、問い続け、作り続けることが大事なのだと思います。完成形なんてものは、きっとないのです。デモクラティックスクールのスタッフになるために、必要な資格があるとしたら、子どもたちをとことん信頼するとはどういうことなのか、自分自身に問いかけ続ける覚悟があるかどうかではないか?そんなふうに思っています。


もちろん、どんな人をスタッフに選ぶかは子どもたち次第なんですけどね!

 

                                  スタッフ:恭子

<追記>

 最近、デモクラティックスクールのスタッフ仲間の中で出ていたなかなかヘビーな話。数人の男の子グループの中で一人の年下の子が、他の子にいいように扱われているように見える。見ようによってはイジメのようにも見える。さて、どうするか?たぶん、普通の学校では放置されない。でも、ここはデモクラティックスクール。何が違うかといえば、ここは誰かが何かを問題だと思ったら、いつでもミーティングで話し合いができる場所。そして、子どもたちはその権利が自分にあることをちゃんと知っている。その条件下なら、いくら不当に「見える」関係でも、「スタッフが」不快に思う行動でも、それは子どもたちにとって学びになっているに違いないと信じられる。…そんな話をしていました。

 

 だからこそ、民主主義と一人一人がそれを行使できる権利があると知っていることがものすごく重要。(普通の学校にはそれがないので大人が止めざるを得ない)そして大人が思わず止めたい気持ちになる理由の一つに、保護者からスタッフの責任じゃないのか?とクレームがくるのではないか?という心配がある。だから、やっぱりこの子どもを徹底的に信じるシステムを保護者もきっちり理解している必要がある。

 

 (スタッフは、もし自分に不快な気持ちがあるなら、それがどこから来ているのかちゃんと見つめる必要がある。自分だったら辛いだろうという個人的な感情や、スタッフとして自分が責められるかもしれないという自分本位な不安を見ないで、正義をかざして「やめなさい」ということはあまりに簡単なのです。)

 

 こんな話ができるネットワークがあるおかげで、一人よがりにならないで考えることができます。ありがたいことです。

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